Featureロシア・バレエ 光と影

第1回 「ロシア・バレエの誕生」


 いつもいうけれど、ひと昔前までは、バレエといえばロシア・バレエのことだった。20世紀初頭のセゾン・リュス-ディアギレフ・ロシア・バレエ団-のヨーロッパでの活動と、東洋、オーストラリアまで廻ったアンナ・パブロワ・バレエ団のおかげである。そのころ、ヨーロッパのどの国でも、自国のバレエをまじめに取り上げる風潮はなかった。

 19世紀の中葉にあれほど栄華を誇ったフランス・バレエは、音楽面での欠点、またあまり芳しからぬバレエ団員の行状などが災いして急速に飽きられていた。そのフランス・バレエを輸入しつづけていたロシアのみがバレエに熱情をそそいだ。いろいろな理由があるけれど、いちばん大きかったのは、地方に広大な領地を持つ貴族たちが、領内に個人のオペラ・バレエ劇場を持ち、自身の、また隣人たちの娯楽の場としたからではあるまいか。歌手、踊り手は領内の農民から選んだ。この時代、農民たちは土地に縛られていて、よそへ移動する自由はなく、農奴と呼ばれており、売買の対象ともなった。この農奴たちの出演する劇場は農奴劇場と呼ばれ、フランス、イタリアから招かれた教師たちに訓練された、かなり高度な舞台を見せた。

 農奴劇場はペテルブルグ、モスクワ近郊をはじめ、大都市近辺に数多く存在し、現在まで保存されている場所もいくつかある。しかし、このことについての調査は進んでおらず、ロシアでもまとまった報告は出版されていない。だが、この貴族階級の個人的な楽しみが、首都ペテルブルグ、及び準首都のモスクワに出来ていた帝室オペラ・バレエ劇場を支えていたことは間違いない。

 ロシアでは、ピョートル大帝による西欧化政策の一環としてオペラ、バレエが輸入されはじめたが、フランス・バレエ最盛期の19世紀中葉には、ロシアでもバレエは絶大な人気を誇った。そしてフランス・バレエの凋落をよそに、ロシア・バレエの人気は大いに上がった。夏を領地で過ごした貴族たちは、冬の社交シーズンには大都市の邸宅に帰って、領地にいたときと同じように観劇を楽しんだからである。富裕な一般市民にとっても、劇場は、ロシアの厳しく長い冬の夜を過ごす、恰好の遊び場だったのである。

 パリのオペラ座の場合と同じく、踊り手の風紀上の問題はあったが、そんなことを吹き飛ばすほど、観客はバレエを愛した。輸入の芸術だったバレエも徐々にロシア化していって、ロシア・バレエというスタイルも出来ていった。観客の側にも、バレエ・ファンという言葉を超えるほどの熱狂的なバレエ愛好家の一群が生れ、バレトマンという名前で呼ばれるようになる。

 踊り手たちは、パトロン探しにも努めたが、バレトマンの厳しい目を満足させなければならなかった。政府の高官にも、皇族の中にモバレトマン(兼パトロン)は生れ、社会のバレエへの庇護は、ますます強大になった。

 その中で生れたのが周知のチャイコフスキー三大バレエであり、チャイコフスキーのバレエへの関与は、ロシアに於けるバレエ芸術の発展に大きな役割を果した。そのあとにつづくのが、最初に述べたセゾン・リュスであり、パヴロワ一座である。

 全世界規模のロシア・バレエというブランドは、こうして生れていった。

 

バックナンバー

第4回 ロシア・バレエへの期待

第3回 ロシア・バレエの日本への影響
第2回 ロシア・バレエの栄光
第1回 ロシア・バレエの誕生


 


usui.JPG薄井憲二(うすい・けんじ) 

 1924年生まれ。東京都出身。バレエ協会会長。16歳でバレエを始める。東大在学中に出征し、終戦後4年間のシベリア抑留生活を経て帰国し、東勇作バレエ団で復帰し、舞台、テレビで活躍。現役引退後は、モスクワ、ヴァルナ、ペルミ、ジャクソン等国際バレエ・コンクール審査員を歴任。西欧舞踊史研究の第一人者として、バレエ関係の著書、訳書も多い。平成18年紺綬褒章受賞。橘秋子賞、蘆原英了賞、兵庫県文化賞他賞歴多数。モスクワのボリショイバレエアカデミーでは名誉教授に任命されている。


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