Feature袴田茂樹のおろしあ国徒然譚

第7回 タイ製ニコンのショックとロシア的市場経済

 

 

 ロシアで車やカメラなど日本製品がたくさん売れている。日本製品と言っても、正確には日本企業製品ということで、工場は日本国外にある場合が多い。ソニーとかパナソニックとか有名な日本企業の製品でも、よく見るとMade in ChinaとかMade in Thailandと裏に書いてある。ロシア人は敏感で、Made in Japanでないと評価しない。日本人の勤勉さ、几帳面さが優秀な日本製品を生み出していると信じているからで、技術のレベルでは中国とかタイはロシアと同じかそれ以下だと思っている。ロシア人はロシア製も信用しない。軍需工場や一部の先端工場は別にして、少なくとも一般の民需工場では自分たちがかなりいい加減な仕事をしているということを知っているからだ。トヨタや日産も、ロシアで組み立てている間はよいが、エンジンなど大部分をロシアで製造するようになったら、評価がガタンと落ちるだろう。Made in Russiaのトヨタは、ロシア人にとってはもはやトヨタではないのだ。
 ロシア人と比べると、日本人はもっとおおらかである。例えば、日本を代表するカメラのニコンは、今は大部分タイや中国で生産しているが、日本人はさほど気にしないでタイ製のニコンを買っている。私もD40XとかD300というニコン製デジタル・カメラを持っている。最近のデジタル・カメラはハイテクの塊みたいなものだが、私が買ったカメラの底にはMade in Thailandと書いてある。ハイテク製品の場合、通常、高級機種は日本で生産し、普及品は国外で生産するという場合が多い。ニコンの場合、D40Xは普及品、D300は高級機種と位置付けているが、共にタイ製だ。さすがにボデーだけで数十万円もする最高機種のD3や新発売のD700は日本製のようだが、ニコンのカメラはもうタイが主力工場である。ニコンと比べると、キャノンはまだ日本の工場で多くのデジタル・カメラを生産しているようである。
 日本人がおおらかだと言うのは、D40XとかD300はタイ製でありながら、わが国の市場では、日本製が中心であるキャノンの同等レベル製品を抜いて、ベストセラーになっているからだ。今、オイルマネーで潤っているロシアでは輸入品が飛ぶように売れているが、おそらくロシア市場では、ニコンはキャノンに対して苦戦を強いられるだろう。
 私も、ニコンのカメラを買った後、タイ製と気付いて、正直言うとすこしガッカリした。ロシア的な見方が浸み込んでいたからだ。と同時に、ニコンの高級機種を途上国タイで生産できるということにある種のショックも受けた。カメラの命はレンズというのが古い世代の信仰で、ニコンのNikkorレンズは国際的にも確固たる地位を確立している。ニコンは世界に認められているが、この「ニコン神話」の基もNikkorレンズにある。ニコン製品の中でも、精密な研磨を必要とするレンズだけは日本製かと思ったら、10万円以下のレンズはやはりタイで生産している。例えばレンズ単体で10万円を超えるAF-S VR  Micro  Nikkor 105mmはさすがに日本製だが、評判の高いニコン主力レンズAF-S DX VR Zoom Nikkor ED18-200 mm(実勢価格約9万円)もタイ製だ。これは自動焦点や自動絞り、手ぶれ補正機構を瞬時に高速作動させる最新のDCモーターを内蔵しているハイテクレンズである。

 

 そこでタイ工場ではどのようにハイテク製品を製造し、品質管理をしているのか、カメラ雑誌の現地レポ記事で調べてみた(『カメラマン』2008年4月号)。レポによると、ニコンのタイ工場は古都アユタヤにある。工場のタイ人従業員は14715人、その内女性は12650人、男性2065人、この他に日本人が男性のみ32人という規模の大きな工場だ。この現地報告を読む限り、タイ工場では日本的な品質管理がしっかりできているようだ。製品検査の仕事ぶりも真剣そのものという。大きな最新式の工場の床は、ピカピカに磨かれていて、通常は油や金属カスで汚れている金属加工の作業場でも、タイ工場では油や金属の削りかすはまったくない。大部分が女性の従業員たちは、驚くほど熟練した繊細な職人芸でレポーターを驚かす。レポーターは、この報告文を次のような文で締めくくっている。「ニコンユーザーの中にはMade in Japanに固執し、 Made in Thailandを敬遠する人もいる。私はタイ工場を見学して、敢えてタイ工場のものが欲しいと思った。この工場で作られるものなら安心だ。検査をするあの厳しい視線を忘れる事ができない。」つまり、日本式の生産方式がちゃんと定着し、品質管理もしっかりできているというのだ。
 二コンが大きな広告スポンサーとなっているカメラ雑誌なので、かなり差し引いて読むとしても、実際にD300などタイ製ニコンを使っている立場からしても、また工場の各職場の写真などを見ても、タイに最先端のハイテク工場が存在するということを否定することはできない。このニコンカメラは全世界に輸出され、プロカメラマンも使用している。
私が考えるのは、今日のロシアでなぜ世界で売れるハイテク製品が製造されないか、という問題である。ロシアは、ソ連時代から教育水準・科学水準の高さや、研究者の多さを誇ってきたし、米国と競争する工業国にもなっていた。発展途上国であったタイでできることがロシアでできないというのは、奇妙なことである。
JETROのロシア担当者から聞いたことだが、ロシアは自前の工業が存在していたが故に、かえって日本企業の進出が難しいという。つまり、ロシアには、車もカメラも自国で生産してきた工業国としての歴史がある。したがって、日本の企業が現地に進出しようとしても、なまじ自己流のやり方を有しているために、それを変えるのは、始めから日本式を教えるよりもはるかに困難だというのだ。つまり、サラ地に最新式の工場を創る方が、古い工場を改造するよりも簡単だ、ということでもある。

 

 もうひとつ別の問題もある。タイのニコン工場は24時間フル操業であるが、2交代制で、従業員は朝の7時45分から19時45分までと、19時45分から7時45分までの2交代で働いているという。日本でもロシアでも、もはやこのような12時間労働のきつい勤務形態は不可能であるし、法的にも許されない。特に若い女性労働者の場合、この勤務形態は導入できない。しかし、まだまだ途上国のタイでは、このような厳しい勤務形態でも、優秀な労働力を集めることができるのだろう。
 今ロシアは、エネルギー・資源輸出依存型の経済を脱して、先進的な工業国に脱皮しようとしている。ロシアがそのためになすべきことは、時には自己流を捨て、国外の先進技術を謙虚に導入する姿勢であり、その諸条件を整えることだろう。そのためには、タイなどに進出している日本企業の先端工場をロシアの企業関係者が視察するのも良い方法かもしれない。またロシアに進出しようとしている日本企業は、ロシア側の問題点をロシア人に遠慮しないで率直に指摘する必要がある。さらに、今述べたことと矛盾するようだが、日本方式をそのまま持ち込むのではなく、ロシアの土壌に適した日露折衷の新しい方式を創出する必要もあるだろう。必要な部品を必要な時に必要な分量だけ納入させるトヨタのカンバン方式を見学したロシア人は、この方式はロシアに導入するのは到底不可能だと嘆いた。ロシアの土壌にはロシア向けに手直しした市場経済が必要なのである。

 

 

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第1回 日本とロシア――忘却から再発見へ




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袴田茂樹(はかまだ・しげき)

 

1944年3月17日生まれ。現職:青山学院大学国際政治経済学部教授。東京大学国際関係論博士課程修了。米プリンストン大学客員研究員、モスクワ大学客員教授、東京大学大学院客員教授を歴任。現在はロシア東欧学会代表理事。

専門は現代ロシア論。関心は哲学、文学、芸術と幅広い。趣味は、各地の料理と酒を堪能すること。ツーリング。主な著書に『深層の社会主義』(サントリー学芸賞受賞)、『文化のリアリティ』、『現代ロシアを読み解く』ほか。

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