Feature袴田茂樹のおろしあ国徒然譚

第8回 日本に先んじていたソ連のカメラ工業

 

 

 前回、タイ製ニコンについて述べた時に、タイはなまじ工業国でなかったために、日本的生産方式が素直に定着したと述べた。これに対して、ソ連時代から工業国として自国でカメラや自動車を生産していたロシアのような国は、カメラ生産に関しても自国の流儀をあるいは自尊心を有しているだけに、「ロシア製ニコン」の生産はタイ製ニコンよりもかえって難しいということを説明した。今回は、工業分野におけるロシアの自尊心とは何なのか、ロシアにおけるカメラ生産の歴史を例にして、その自負について説明したい。
 ソ連製とかロシア製のカメラと言っても、一部の好事家を別にすると、今の人にはピンと来ないだろう。ソ連邦が崩壊したあと、ロシア(ソ連)製の新品、中古のカメラが大量に西側に出て、わが国でも一時ロシアの無骨なカメラが「差別志向」「アナログ志向」の中でけっこう売れたことがある。カメラ雑誌がロシア製カメラの特集を組んだり、関連の書物が幾冊も出たりもした。しかし今はそれも下火になり、いくつか生まれたロシア・カメラ専門店もほとんどが消えた。新宿や日本橋にある「カメラのきむら」中古部でも、2年前まではロシア・カメラコーナーがあったが、それもなくなった。しかし今でも年配のカメラファンにとって、ソ連製のキエフというカメラは忘れられない存在である。ソ連経済を専門としている佐藤経明教授とカメラ談義をしたことがあるが、クラシックカメラの愛好家である教授にとってもコンタックスと同じ性能のキエフは特別のカメラであった。
 日本のキャノンやニコンもそうであるが、ロシアもドイツのライカやコンタックスを手本にして一般向けのカメラ生産を始めた。ロシア製の35㎜カメラは、1934年にライカのコピー生産から始まった。ライカは1932年にライカⅡ型を発売したが、1934年にこれをデッドコピー(丸写し)したのがФЕДⅠ(FEDⅠ)と称するカメラで1955年まで生産された。ФЕДというのは、ウクライナのハリコフにある浮浪児、孤児の矯正施設のことで、ソ連のKGBの生みの親フェリックス・エドムンドビッチ・ジェルジンスキーの名を冠してФЕДと呼ばれている。その職業訓練場が、1934年にライカⅡ型のコピー生産を始めたのだ。当時のFED1カメラの上部には、ФЭジェルジンスキー記念ウクライナ内務人民委員部労働コンミューン ハリコフ(Трудкоммуна НКВД-УССР им ФЭДзержинского Харьков)製と記されている。
 ちなみに、ウクライナにおける浮浪児、孤児の矯正施設については、ソ連の代表的教育学者A・マカレンコの活動でよく知られており、それを描いた映画「人生案内」が戦前にわが国でも公開されて話題になった。このようなソ連の矯正施設の職業訓練場で、ライカのコピーのような当時の最先端の精密工業製品が生産されたことは不思議である。KGBの前身である内務人民委員部が厳格に管轄し、有能な専門家たちが投入されていたために、矯正施設でもこのような精密な工業製品の生産もできたのかもしれない。
 1939年以後は、製作所の名称はウクライナ内務人民委員部の労働コムーナではなく、ソ連邦内務人民委員部ハリコフ・コンビナート(НКВД-СССР Харьковский КОМБИНАТ им ФЭДзержинского)製となり、さらに46年にはジェルジンスキー記念工場(ЗАВОД им ФЭДзерж кинского Харьков)、48年には単なる工場ではなく、赤旗勲章工場(Ордена-Трудрвого Красного-Знамени завод)となっている。つまり、このFEDカメラ工場は、単なる職業訓練施設ではなく、国家が本腰を入れた本格的な工場、コンビナートとして計画し育てられていることがわかる。このFED1の生産台数も、コンミューン時代の5年間に12万5000台、その後れっきとした企業となって1955年までに累計80万台も生産している。
      (http://cccpcamera.photo-web.cc/RussianCamera/RF/FED1/FED1.htm

 

 キャノンの前身である精機光学研究所がカンノン・カメラと称した試作機を作ったのが1933年、ハンザ・キャノンと称するライカのコピーを発売したのは、FEDⅠ発売の2年後の1936年であった。わが国の35㎜カメラの草創期である。
 1948年からは、モスクワ郊外のクラスノゴルスク機械工場(KMZ)がFEDの協力のもとに、同じライカ型のカメラを生産するようになり、これはЗОРКИЙ(ZORKI)Ⅰ型として1956年まで生産される。このFEDⅠ、ZORKIⅠは、写真で見る限り、外見は本家のライカⅡ型とまったく区別ができない。このライカⅡ型のソ連製コピーは150万台も生産された。ライカの今日までのすべて型の生産台数が約150万台と言われているので、その数の多さがわかる。クラシックカメラの市場では旧式ライカは人気があるが、ソ連製FED、ZORKIが、ネームの部分だけ変えてライカⅡに化け、市場に数多く出回っているそうだ。量産されたソ連製ライカはフェイク(贋作)の絶好の材料になっているのである。ちなみに、キャノンのライカ型はボデー端の形状をライカの丸型から角型にして差別化を図っている。
 ドイツの本家ライカに関しては、1925年の初代ライカA型から1957年のライカIg型までを、設計者の名前にちなんで一般にバルナック・ライカと呼んでいる。これはライカの黄金時代でもあったが、日本もソ連もこのバルナック・ライカを手本としてほぼ同じ時期に(ややソ連が先行しているが)カメラ生産を始めたのである。

 

 FED1はライカⅡのデッドコピーだが、ロシアの名誉のために言えば、それはボデーだけのことで、戦前のFEDはライカのライツ・レンズをコピーする場合もそれなりの創意を加えており、独自のレンズも開発している。50㎜の標準レンズ、28㎜の広角レンズ、また100㎜の望遠レンズも、ライツを手本としながらもFED独自の機構になっている。特に28㎜の広角でF4.5という明るさは、当時世界で最も明るかったといわれる。さらに、ソ連の政治的な特殊性から、50㎜の接写レンズ(マクロレンズ)も文献複写用として独自に開発している。もうひとつロシアのカメラ工業の名誉のために述べておくと、世界で最初に35㎜フィルムの一眼レフカメラを発売したと言われているのは、レニングラードのGOMOZ(国立光学器械工場)のСПОРТ(スポルト)で、1936年のことであった。これは、ドイツのイハゲー社の有名な一眼レフ「エキザクタ(キネ・エキザクタ)」とほぼ同じころだ。旭光学が日本で最初の一眼レフであるアサヒフレックス(アサヒペンタックスの前身)を発売するのが1952年のことであるから、ソ連は一眼レフの分野では日本よりもはるかに先んじていたことになる。
 以上、日本と比べながら、主として戦前のソ連のカメラ生産について説明した(資料 内田理之「ロシアライカはバルナックか?」『写真工業』2008年8月号 他)。ロシアというと、宇宙開発や軍事技術では突出しているが、カメラのような民需の工業製品では日本よりもはるかに遅れているというイメージがある。しかし、少なくとも戦前の日本とソ連を比べるかぎり、カメラ生産において差がないどころか、むしろソ連の方が進んでいるという面も少なくなかった。それが戦後どう変化するかについては、次回述べたい。

 

  

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袴田茂樹(はかまだ・しげき)

 

1944年3月17日生まれ。現職:青山学院大学国際政治経済学部教授。東京大学国際関係論博士課程修了。米プリンストン大学客員研究員、モスクワ大学客員教授、東京大学大学院客員教授を歴任。現在はロシア東欧学会代表理事。

専門は現代ロシア論。関心は哲学、文学、芸術と幅広い。趣味は、各地の料理と酒を堪能すること。ツーリング。主な著書に『深層の社会主義』(サントリー学芸賞受賞)、『文化のリアリティ』、『現代ロシアを読み解く』ほか。

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