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第3回 電気工場駅のターニャ-エレクトロザヴォーツカヤ駅
ホテル代を浮かすつもりで借りたイズマイロフスカヤのアパートに、ある日、猫をつれたロシア人が現れた。時々通訳を頼む女性だった。サンクトペテルスブルグ出身の彼女は、同郷のボーイフレンドと同居していたが、しょっちゅう喧嘩したり、アパートを飛び出したりしていた。とうとう彼の暴力にたまりかねて、部屋を出たのだと言う。「ロシアにはよくある話よ」とターニャは言う。 ターニャが働いている会社は、電気工場駅、エレクトロザヴォーツカヤにあった。モスクワの地下鉄は上り線と下り線で車内アナウンスの声が違う。上りはテノールの男性の声で、下りはソプラノの女性の声(東京の地下鉄は、ホームのアナウンスが番線によって男女の声を使い分けているようだ)、テノールの「エレクトロザヴォーツカヤ」はとりわけ響きがいい。エレクトロザヴォーツカヤ! ある日、いつもは都心との行き帰りに通り過ぎるだけのエレクトロザヴォーツカヤ駅で、ターニャと待ち合わせをした。車内からは判らなかったのだが、ホームに降り立って駅構内に入ってみると驚いたことに、そこはちょっと昔のSF映画に出てくるような、近未来とゴシックが混ざった空間だった。照明が建築デザインと融合し、エレクトリックというものの明るい未来を具現化しようと努力した地下空間がそこにはあった。 ターニャは、その奇妙な空間の大理石のベンチに座っていた。見回すと、ベンチには、本を読む人、相談事をする人、うたた寝をする人、がいる。ところどころ、天井の電球が切れて照明が欠けている。電車が行ってしまうと、空調の音と大理石に響く靴音だけが残った。今日はボーイフレンドのアパートにいったん荷物を取りに戻るので、エビちゃんにこのえさをあげてほしい、とターニャはキャットフードの包みを渡してよこし、コツコツと音を立てて出口へ歩いて行った。コツコツ。 ゴーッと音をたてて次の電車が滑り込んできた。エレクトロザヴォーツカヤ!と女が優しく歌い、ゴトゴトとドアが開く。乗り込むと疲れきった顔の人々が、ちらりと視線をこちらによこし、新参者が無害であることを確かめると、視線をもとに戻した。いつものようにイズマイロフスカヤ駅前の青空市場で食材とワインを買って帰り、アパートに戻るとターニャの猫が出迎えてくれた。 その夜、エレクトラザヴォーツカヤ駅の切れた電球のことを考えた。切れた電球はいつ変えるのだろうか?予算が無く、切れたら切れっぱなしなのだろうか。あれだけ白色電球を使うと、消費電力もばかにならないだろう、ところで、電気工場はいまでもあるのだろうか?いったい何を作っている工場なのだろうか?エレクトロザヴォーツカヤ!!!
エレクトロザヴォーツカヤ駅は、地下鉄3号線、革命広場前駅から3駅目。2008年6月現在はリノベーション中で閉鎖されている。
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