Feature モスクワ地下鉄散歩

 第9回 抱擁そして歴史の両側 / 環状線キエフスカヤ駅

 
 環状線キエフスカヤ駅は、ロシア国鉄のウクライナ方面への列車の始発駅であるキエフスキー駅の地下にある。友あり遠方より来る、である。ここには大きな荷物と再会の抱擁が溢れている。
 ロシアにとってウクライナが特別な存在であることは、今も昔も変わらない。しかしロシアの歴史もソビエトのこともあまり知らない私のような日本人から見れば、ロシア人のウクライナ不満、ウクライナの反ロシア感情は、どうもピンとこない。居候のターニャは、友達とキエフ旅行したことがあるという。とても美しい街でした、と言った後に「でも、、」とウクライナへの苦情が始まる。

  

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 このキエフスカヤ駅の中央通路の壁面には、ロシア/ソビエトとウクライナの(ロシア側から見た)歴史がモザイク画で陳列されている。愛憎まみえる二つの国の縁が描かれたこのモザイク画、歴史をちょっと紐解きながら見ていこう。


 一枚目は「1654年ペレヤスラフ協定」(写真下左)。軍事共同体であったウクライナ・コサックがポーランドに対抗するためにモスクワ大公国と結んだ協定らしい。ウクライナ側から見ればこれがロシアに騙され祖国を分断された元凶ということだが、クレムリンはこれをウクライナとロシアの友情と解釈したようだ。歴史をさかのぼれば、キエフ公国は後のロシアを生んだ母体。ウクライナはその継承者だ。

  

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 次に描かれるのは「1709年ポルタヴァの戦い」(写真上右)。スウェーデンと熾烈な「大北方戦争」を続けていたピョートル1世は、ロシア帝国の支配に反旗を翻したウクライナのイヴァン・マゼーパと彼が率いるコサックの反乱を制圧しようとする。そのマゼーパはスウェーデンと通じ、カール12世のスェーデン軍に合流、ロシア軍と東ウクライナのポルタヴァで会戦した。ロシアの大勝に終わったこのポルタヴァの戦いは、コサックの最後の反乱となったそうだ。この後、ロシア人にとって「マゼーパ」は裏切りと分離主義の代名詞となる。もちろんウクライナ人にとって今やマゼーパは祖国の英雄だ。
 

 

 三枚目のモザイク画には、ロシアの国民的詩人プーシキン(1799-1837)が描かれている(写真下左)。この詩人は訳あって1823年から一年間あまりウクライナの都市オデッサに滞在している。貴族であった詩人は皇帝やロシア帝国への過激な言動でペテルブルグから左遷され、ウクライナの西隣モルドヴァの田舎暮らしをするはめになる。当時詩人は23歳。コーカサス地方を旅し、その後オデッサに移ってからは恋に明け暮れ、最後は総督の妻に手を出して官職も追われウクライナを後にする。母親の実家に身を潜め、ほとぼりが冷めるのを待ちながら創作を続けた。後に国民的詩人と言われるようになるプーシキンにとって、ウクライナは揺籃の地とでも言うのか。

  

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 ここからロシア革命前夜になる。つぎに描かれるのは、4人の男たち(写真上右)。一番右から詩人で編集者のニコライ・アレクセーヴィチ・ネクラーソフ(1821-1878)。つぎは評論家のニコライ・ドブロリューボフ(1836-1861)。中央の眼鏡の好青年は、哲学者で経済学者のニコライ・ガヴリーロヴィチ・チェルヌイシェフスキー(1828-1889)。そして一番左で手帳を広げ他の三人に読み聞かせているような人物こそ、ウクライナが生んだ偉大な文芸家タラス・フルィホローヴィチ・シェフチェンコ(1814-1861)だ。
 ウクライナ出身の詩人シェフチェンコは、ペテルブルグの帝立アカデミーで学びまず絵画の才能を認められるが、ウクライナ民族主義と農奴解放運動に傾倒し皇帝の反感を買い逮捕され流刑に処せられた。ペテルブルグに滞在したのは、学生時代の1830年代前半と投獄されていた1847年頃。そしてその後10年間の流刑からいったんウクライナに戻ったが、死の直前ふたたびペテルブルグに赴き1861年に没するまでの数年を過ごした。

 この絵の中の4人を結びつけているのは、当時ペテルブルグで出版されていた雑誌『同時代人Современник』だろう。詩人プーシキンが家計の足しにと思いつき発刊した文芸雑誌だったが、プーシキンの死後、ロシアの未来と革命を夢見るインテリたちの集う雑誌となっていた。若き日のトルストイやツルゲーネフも寄稿している。
 この絵は1860年頃、最晩年のシェフチェンコが、当時ペテルブルグで勃興した革命運動を担う『同時代人』の同人たちに、自作の詩を読み聞かせている図だろう。しかし、実際のところ、彼らが一堂に会したことがあるのかは知らない。
 

 

 ここからはロシア革命の時期にあたる。続いて壁画はウクライナ東部のドンバス地方での農奴解放運動を、さらに1917年10月ウクライナにおけるソビエト政権樹立宣言をの場面を描き出す。もちろん宣言しているのはレーニンだ(写真下左)。 

  

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 時系列的には、その後のいくつかの革命的に象徴的かつ有益な場面が描き出されるが、もうひとつ私たちに特定可能な人物が描かれているのは、ドニエプル川のダムを背景に描かれるカリーニンとオルジョニキーゼだ(写真上右)。
 原稿を手に演説しているミハイル・イヴァノヴィチ・カリーニン(1875-1946)は、初期のソビエト連邦を代表する政治家だ。その背後、口ヒゲの人物はグリゴリー・コンスタンティノヴィチ・オルジョニキーゼ(1886-1937)。グルジア出身の政治家で、ロシア革命中は一時期ウクライナの政治局員を務めた人物。クレムリンの命を受けて、ウクライナから南のコーカサス地方のソビエト政権樹立に活躍した人物とされている。ダムが発電を開始したのは1932年。当時は彼はソビエト政府の重工業担当政治局員でもあった。そしてふたりに共通するのは、スターリンと親しかったということだ。

 


 歴史のお勉強はもうこれくらいにしよう。ロシアの国民詩人は、南の地コーカサスとウクライナで放蕩と反皇帝と創作を続けた。ウクライナ文学の偉人はペテルブルグで学び、皇帝に反旗を掲げ流刑に処せられた。出獄後ウクライナにいったん戻りながらもペテルブルグを終焉の地とした。そういうわけで、たぶんキエフスカヤを通過する誰ももはやモザイク画の内容には関心を示さないだろうが、ウクライナはロシアにとってやはり依然として、憧憬と優越感が共存する、扱いにくいが手放したくない南方の隣人で、言葉は悪いけれど脅したりすかしたり、苦労が絶えない、ということか。もちろんウクライナ人から見れば別な話だが。そしてキエフスカヤでは今日もあちらこちらで、再会と別離の抱擁が繰り返されている。

  

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 環状線キエフスカヤ駅は、モスクワ地下鉄環状線にある。開業はスターリンの死からちょうど一年が経った1954年3月。地上にはロシア国鉄のウクライナ方面への始発駅キエフスキー駅がある。

  

 

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検見崎まこと(けんみさき・まこと)

 

鹿児島県生まれ。写真作家。(株)文藝春秋を経て1991年に独立。映像スタジオStarfish Lab.として、舞台、雑誌、広告などの写真、映像、webコンテンツの製作などを手がける。ロシア、インドシナ、中国、チベットなど各地を取材。ブログ「Traveling Penguin」には、中国やチベットからのレポートが随時アップされている。

オフィシャルサイト:http://www.kemmisaki.com/

ブログ:http://web.mac.com/starfishlab/


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